地図
JR唐崎駅で下車し、琵琶湖に向かって10分ほど歩くと『神馬仮屋地』の看板があり、唐崎神社はすぐそこです。
唐崎中学と国際文化研修所の間の街路樹の蝉時雨がうるさい程でした。
でも、まだ10時前だったので、涼しい風も吹いています。
午前中のお参りがおすすめです。
日吉大社摂社 唐崎神社
9:50
すでにちらほらお参りに来られています。
平安時代には「七瀬の祓(ひちせのはらい)」の1つとして朝廷で行事を行うときには必ずお祓いを行う場所となり、多くの姫君たちがお祓いをされました。
御祭神
女別当命(わけすきひめのみこと)
御由緒
舒明天皇5年(633年)頃、日吉大社神職家の始祖、琴御館(ことみたち)宇志丸(うしまる)が居住し、「唐崎」と」名付けて松を植えたと伝わります。
天智天皇7年(668年)、西本宮の大己貴神(おおなむちのかみ)を奈良県大神神社から勧請し、湖上の漁舟から田中常世(つねよ)という人が神命を受け、唐崎の松にお送りし、粟飯を供しました。これが日吉大社山王祭で唐崎沖で行われる「粟津の御供」神事の起源です。
持統天皇11年(697年)宇志丸の妻を御祭神として神社が創建されました。
みたらし花手水
涼しげな花手水、こころも洗われます。
みたらし祭
7月22日から7月28日
午前10時から午後4時まで、ご祈祷や茅の輪くぐりが行われます。
7月28日のみ様々な神事が行われます。
午後8時からの手筒花火神事が特に有名です。
御朱印
御守り
ちの輪守
諸々の罪や穢れを祓う不浄よけの御守りです。
トイレに祀ると、下の病や婦人病、夜尿症にも霊験ありとされています。
今回はこちらを購入しました。
みたらし団子守
病魔除け、家内安全の御守りもありました。
茅の輪くぐり
自身の穢れや厄災を祓い清め、この先半年の無事を祈ります。
茅の輪くぐりは素戔嗚尊と蘇民将来の逸話が起源です。
旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうしん)を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は貧しいながらももてなします。再訪した武塔神は蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて皆殺しにして滅ぼしました。
武塔神は自らをスサノウと正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたそうです。
スサノウさん相変わらず、やる事が荒っぽいです。
図の通り、茅の輪をくぐって見ました。
朝の爽やかな空気の中、琵琶湖に向かってくぐり抜けると、神聖な気分になります。
近江八景 唐崎の夜雨
唐崎の一本松
現在の松は3代目だそうです。
松の間から対岸の三上山が見え、湖上ではボートに乗っって釣りをしている人も。
青空が湖面に映って湖岸の散歩も気持ちが良いです。
式子内親王
みたらしや 影絶えはつる 心地して しがの波路に 袖ぞ濡れにし
源平の騒乱の時期に生き、不幸な生涯を送った内親王が、もっとも幸福だった少女時代を思って唐崎神社で詠んだ歌とも言われています。
久安5年(1149年)〜建仁元年(1203年)享年53歳
後白河法皇の第三皇女です。
賀茂斎院
10歳から21歳の時、病気で退下するまで、賀茂の斎院として神に仕えます。
その際に唐崎神社の祓所で身を清め、俗世へ戻りました。
しかし、一度神に仕えた内親王は自由な結婚は許されず、母や弟の以仁王と暮らす事に。
しかし、1180年に以仁王は平家打倒の挙兵をし、戦死します。
藤原定家
その後、大地震が起こり、地震により起こった大火で焼け出されたり、飢饉も起こり、住む所も転々とする事に。
そんな日々の中、内親王が残した叶わぬ恋の歌の『玉の緒よ 絶なば絶えね ながらへば しのぶることの 弱りもぞする』が百人一首に選ばれています。
そしてその恋の相手が藤原定家ではないかという説もあります。内親王は藤原俊成、定家親子を歌の師としていて、謡曲『定家』の題材にもなっているそうです。
法然上人
その他、浄土宗の宗祖・法然上人への精神的な愛の心を詠んだのではないかという説もあります。
代表的な女流歌人
現在残っている歌は400首弱と多くはないのですが、後鳥羽院から賞賛を受け、『新古今和歌集』にも数多くの歌が選ばれています。
みたらし団子
京都の下鴨神社と共にみたらし団子発祥の地と言われています。
寺田物産
鳥居の前にお店があります。
営業時間 9:30〜16:00
定休日 木曜日
なんと!本日、臨時休業😭
3本¥330、5本¥550、10本¥1100があるそうです。
そば
近くにお蕎麦屋さんがありました。
11時から営業との事です。
今回はみたらし団子もお蕎麦も諦め、涼しい内に帰宅しました。
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