三井寺(園城寺) 妖怪鉄鼠(頼豪ねずみ)

大津市

拝観

天台寺門宗 総本山(日本四箇の大寺、奈良の東大寺、興福寺、比叡山の延暦寺の一つ。)

天智天皇の勅願であり、大友皇子(弘文天皇)の皇子・大友与多王が自分の田園城邑を投げ打って建立しようとしたため、壬申の乱では大友皇子と敵対した天武天皇ではありますが朱鳥元年(686年)このお寺の建立を正式に許可し、「園城寺」の寺号を与えました。

智証大師円珍は貞観元年(859年)園城寺の初代長吏に就任し、その後の園城寺の発展の基礎を築きました。

長い歴史の上で、再三の兵火にあい、焼失しましたたが、豊臣氏や徳川氏の尽力で再興され、現在も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝を数多く伝えています。

<拝観に必要な時間> 2〜3時間

明治維新後20万平方メートルが軍に接収されましたがそれでも広い境内の中に国宝や重要文化財が多数の為、見どころ多いです。

途中で力餅など食べてゆっくり散策するのがオススメです。

<拝観時間>8:00〜17:00(受付終了16:30)

年中無休

文化財収蔵庫は8:30〜16:30(受付終了16:00)

<入山料>大人:600円 中高生:300円 小学生:200円 ※100円お得な周遊券も有り

<アクセス>

京阪石山坂本線 三井寺駅より徒歩7分

京阪石山坂本線 大津市役所前駅より徒歩12分

JR東海道本線(琵琶湖線)大津駅 または JR湖西線大津京駅より 京阪バス三井寺 下車すぐ

仁王門 (重要文化財)

広い境内なので、入り口は3箇所あります。この先からも入れます。

室町時代の宝徳4年(1452年)に近江国の常楽寺(滋賀県湖南市)に建てられましたが、豊臣秀吉により伏見城に移築。それを徳川家康が慶長6年(1601年)寄進しました。

※常楽寺は湖南三山の一つで、こちらにも国宝や重要文化財が多数あります。

釈迦堂 (重要文化財)

天正年間(1573年ー1593年)造営の京都御所の清涼殿を下賜され元和7年(1621年)に移築されたと伝えられます。本尊には釈迦如来を安置しています。

今回、御朱印はこちらでいただきました。

御朱印は6箇所で14種類あります。

金堂 (本堂・国宝)

園城寺の総本堂。豊臣秀吉の北政所により慶長4年(1599年)再建されました。本尊は弥勒菩薩。用明天皇の時代に百済より渡来し天智天皇の念持仏となり、園城寺草創の際に天武天皇が本尊として安置したと伝えられています。

仏像などの展示物も多数有り、この寺院の歴史の深さを感じられました。

寺門・山門の争いで何度も延暦寺からの焼き討ちにあっているので、再建された建物がほとんどです。

三井の晩鐘 (重要文化財) 近江八景の一つ

 

宇治の平等院、高雄の神護寺と共に日本三名鐘に数えられています。

有料ですがこの鐘をつくことができます。

私はつきませんでしたが、他の観光客の方がいい音色を響かせておられました。

閼伽井屋(あかいや) 三井の霊泉 (重要文化財)

 

この泉は天智天皇、天武天皇、持統天皇の三帝が産湯に用いたことから御井や三井と呼ばれ、三井寺と呼ばれるようになったそうです。

今も格子戸の奥にある岩組からはポコポコとかなりの勢いで霊泉が湧出していて驚きました。

泉を護る覆屋の正面上部にある左甚五郎作の彫刻の龍は夜毎琵琶湖に現れて、暴れていたので、甚五郎が龍の目に五寸釘を打ち込んだという伝説があります。

霊鐘堂 弁慶の引摺り鐘 (重要文化財、奈良時代)

俵藤太秀郷三上山の百足退治の礼に竜宮から持ち帰った鐘と伝えられます。

その後、比叡山延暦寺(山門)と園城寺(寺門)の争いで弁慶が奪い比叡山へ引きずり上げて撞くと、「イノー・イノー」(関西弁で「帰りたい」の意)と響いたため、弁慶が怒って鐘を谷底へ投げ捨てたと言われています。

一切経蔵 (重要文化財)

室町初期の建築で、慶長7年(1602年)戦国大名毛利輝元により山口県・国清寺より移築、寄進されました。堂内には高麗版一切経を納める回転式の八角輪蔵があります。

すごく大きくて、驚きました。

唐院 (重要文化財)

開祖・智証大師円珍和尚(814〜891年)の廟所としてもっとも神聖な場所。唐院の名は智証大師が入唐求法の旅で持ち帰った教典類を納めたことに由来するそうです。

大師堂、灌頂堂、三重塔などが立ち並んでいます。

微妙寺

三井寺の五別所のひとつで、現地に移築したもの。本堂は安永5年(1776年)再建。

本尊は十一面観世音(重文・平安初期)で、現在は故国十一面観世音霊場の第一番札所となっています。

毘沙門堂 (重要文化財)

元和二年(1616年)の建立で、極彩色に彩られた荘厳で優美な建築です。

水観寺(県指定文化財)

三井寺の五代別所のひとつで現地に移築したもの。本尊は薬師如来をまつり、現在は西国薬師霊場の第四十四

番札所となっています。建物は明暦元年(1655年)の建立。

西国十四番札所  観音堂 (県指定文化財)

西国三十三所観音霊場の第十四番札所。本尊は如意輪観音(重文・平安時代)で33年ごとに開扉される秘仏。琵琶湖を眺望する境内には元禄2年(1689年)再建の観音堂を中心に講堂が並び札所伽藍を構成しています。

百体堂、鐘楼、観月舞台、絵馬堂、世継地蔵堂、手水舎。

お土産物屋さん横の階段を登ると観音堂と琵琶湖と大津市街地が見渡せる、絶景ポイント。

春には全山桜になるので、次は桜のシーズンに訪れたいと思います。

お土産物屋さんで力餅をいただき、しばし休憩。

2串とお茶で¥300。とっても柔らかいお餅でした💓

※価格は2021年10月現在のものです。変更になっている場合がありますがご了承下さい。

十八明神社 別名「ねずみの宮」

妖怪 鉄鼠

山内の土地、伽藍を守護する神々を祀っています。別名を「ねずみの宮」と呼ばれています。

太平記によれば、園城寺の戒壇道場建立の勅許は比叡山延暦寺の強訴により取り消されました。

これに怒った頼豪阿闍梨は二十一日間、護摩を焚き壇上の煙と果てます。その強念が八万四千匹のねずみとなり、延暦寺に押し寄せ、堂塔や経巻を喰い荒らしたと伝えられています。

現在の建物は天保7年(1836年)に再建され、延暦寺に向かって建てられています

これに対抗して、延暦寺はふもと坂本に鼠社「猫の宮」を建てています。

このあたりの延暦寺と三井寺の抗争は本当に激しいです。

観音堂へ登る階段の横にひっそりと建っています。

「鉄鼠」の名は江戸時代の妖怪画集『画図百鬼夜行』において、作者鳥山石燕がつけた名前です。

この階段の右横です。

頼豪

長保四年(1002年)ー 応徳元年(1084年)。父は伊賀守藤原有家。

修法の効験で知られ、承保元年(1074年)に白河天皇の皇子誕生を祈願し敦文親王が誕生したことから、園城寺の戒壇院創設を天皇に請いましたが、園城寺と対立していた延暦寺の反対により実現しませんでした。その後怨念を抱いて断食して命を絶ったそうです。

戒壇とは

日本に仏教が伝来したのは538年といわれていますが、その際、伝わった戒律は不完全なもので、当時、出家は税を免除されていたため、税を逃れるために出家し、得度を受けない私度僧が多く、出家といえども修行もせず堕落した僧が多かったそうです。

その為、唐より鑑真が招かれ、戒律が伝えられ、この戒律を守れるものだけが僧として認められました。鑑真は754年、東大寺に戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行ないました。これが最初の戒壇です。

その後、東大寺に戒壇院を建立し、筑紫の太宰府の観世音寺下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇を築きました。(天下の三戒壇)

これ以降、僧になるためには、いずれかの戒壇で授戒し、戒牒を受けることが必須となり、国(国分寺)が僧を管理することになりました。

しかし、822年、最澄の死後に延暦寺に対して戒壇の勅許が下され、戒壇が建立されました。(大乗戒壇と呼ばれることもある)

当時、中国の仏教界は延暦寺の大乗戒壇を、戒壇としては認めておらず、ここで授戒した僧は中国では僧として認められませんでした。また、官立寺院ではない延暦寺の山内に戒壇設置を認めたことに、東大寺をはじめとする南都(奈良)の寺院の反発を招き、両者の対立の原因の一つとなりました。

天台宗の山門寺門の権力闘争の原因でもあります。

鉄鼠の檻   京極夏彦著

百鬼夜行シリーズ第4弾。

20年位前に読みましたが、内容すっかり忘れてしまいました。面白かったことだけは覚えているので、この機会に読み返してみようかと思います。

ふじの木茶屋

遅めの昼食をこちらで。コロナ緊急事態宣言明けの平日の13:40、お客さんは私ひとりでした。

弁慶そば ¥850   鰻とお餅入り

お餅が力餅とかぶってしまいましたが、美味しく頂きました。

カウンターのみ15席のお店です。

長等神社の隣、拝観受付の手前にあります。

※価格は2021年10月現在のものです。変更になっている場合がありますがご了承下さい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました