義仲寺・今井兼平の墓 

大津市

 

地図

 

木曾義仲

源義仲、平安末期 久寿元年(1154年)河内源氏の一門の源義賢の次男として生まれます。幼名は駒王丸。源頼朝、義経兄弟とは従兄弟にあたる。

父、義賢は兄である、源義朝との対立により、大蔵合戦で義朝の長男•義平に討たれます。当時二歳の駒王丸は畠山重能と斎藤実盛に助け出され、信濃国木曽谷の中原兼遠に預けられました。

治承四年(1180年)以仁王の令旨によって挙兵。異母兄の源仲家は父•義賢の死後、京都で源頼政の養子になっていましたが、五月の以仁王の挙兵に参戦し、頼政と共に宇治で討死しています。

以仁王の遺児を北陸宮として擁護し、寿永二年(1183年)倶利伽羅峠の戦いで平氏の大群を破って入京。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されましたが、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となります。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征夷大将軍となりますが、寿永三年(1184年)源頼朝が送った源範頼•義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれました

松尾芭蕉

寛永二十一年(正保元年、1644年)に伊賀国阿拝郡にて、柘植郷の土豪一族出身の松尾与左衛門次男として生まれる。

今井兼平

正式な名のりは中原兼平。父は中原兼遠。木曾義仲の乳母子として共に育ち、兄の兼光と共に側近として仕える。

巴御前

『平家物語』によれば木曾義仲に仕える女武者。『源平盛衰記』によれば中原兼遠の娘、樋口兼光、今井兼平の姉妹で、木曾義仲の妾。(生没年不詳)

山吹御前

『平家物語』によると、巴御前と共に信濃国から京へと付き添ってきたが、義仲の敗北の際には病で動けなかったため同行できなかたという。

生年没不詳

義仲寺

義仲公墓(木曽塚)

朝日将軍木曽義仲公の御墓所。

寿永三年(1184年)源範頼、義経の軍勢と戦い、この地、粟津で討ち死にしました。享年三十一歳。

朝日堂

義仲寺本堂。本尊は木彫聖観世音菩薩。

義仲公、義高公父子の木像を厨子に納める。義仲公、今井兼平、芭蕉翁、ほか合わせて三十一柱の位牌を安置しています。

源義高(清水冠者)

木曾義仲の嫡男。

頼朝との和議の為、人質として鎌倉へ。名目は頼朝の長女・大姫の婿として迎えられました。義仲の死後、大姫の手配で鎌倉を脱出しようとしますが、武蔵国で捕らえられ、討たれました。享年12歳

無名庵

松尾芭蕉もたびたび滞在し、句会も盛んに行われました。

芭蕉翁墓

元禄七年(1694年)大阪にて死去。享年五十一歳。

遺言に従って、去来、其角、正秀ら門人十人により義仲寺に葬られました。

翁堂

正面祭壇に芭蕉翁坐像、左右に丈艸居士、去来の木像、側面に蝶夢法師胸像を安置する。

正面壁上に「正風宗師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。

天井の絵は伊藤若冲筆四季花卉の図です。

粟津文庫

寛政三年(1791年)蝶夢法師の創設。蝶夢法師は三十六歳のとき、洛東岡崎に草庵を結び、五升庵と名付けた。以来、終生芭蕉翁を敬慕し、翁の偉業顕彰に努め、蕉門俳書のほとんどを収集し上梓しました。

巴塚

木曽義仲公の側室、巴御前の塚。

曲翠墓

膳所藩士菅沼曲翠は芭蕉翁の最も信頼した門人の一人でした。享保2年(1717年)曲翠は藩の悪家老曽我権太夫を槍を取って刺殺し、自らも責任をとって切腹しました。この事情から、没後曲翠の墓はつくられませんでした。昭和四十八年義仲寺内に「曲翠墓」を建立。没後二百五十七年、初めての建墓です。

山吹塚

義仲公の側女山吹御前の塚。

もとはJR大津駅前にありましたが、駅の拡張工事にともない、昭和四十八年(1973年)に移築されました。

木曽八幡社

義仲寺の鎮守。昭和五十一年(1976年)社殿鳥居を併せ新造。

巴地蔵堂

山門前右手の堂に、石彫地蔵尊を祀る。巴御前を追福するものです。

 

所在地  大津市馬場1丁目5-12

077-523-2811

休日   毎週月曜日 (祝日、振替休日及び4月•5月•9月・10月・11月は開門)

拝観時間 9:00〜17:00(11月〜2月は16:00まで)

アクセス JR琵琶湖線「膳所」下車徒歩10分

京阪石山坂本線「京阪膳所」下車徒歩10分

料金   大人300円、中学生200円、小学生100円

 

平日の10時頃だった為か、他に参拝者はいらっしゃらず、お庭の手入れをされていたお寺の方が、翁堂の説明をして下さいました。

現在も無名庵では句会も催されているようで、綺麗に手入れされたお庭に感動しながらも、ここで一句とはいかず。ちょっと、俳句の勉強をしてみようかとも思いました。

御朱印 ¥300  3種類

前回、朝日将軍をいただき、今回は巴御前をいただきました。

もう一つは松尾芭蕉になります。

今井兼平の墓

 

 

源義経、範頼の軍と近江の粟津で戦い、討死した義仲のあとを追って自害しました。

その最期は、口に刀を含んで馬から飛び降りるという壮絶ないものでした。

 

JR北口を出て左に向かい、工場沿いを進むと、盛越川という小さい川があり、川に沿ってそのまま進むと、すぐです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました