小野神社・唐臼山古墳、小野妹子神社

大津市

地図

小野神社で「小野神社マップ」が置いてありましたが、JRの和邇駅にも小野駅にも観光マップの類がなかったので、以前石山駅の観光案内所でもらった、「びわ湖大津 光ルくんマップ 大津市観光地図」が役立ちました。

JR和邇駅

9:30に和邇駅を出発しました。

地図で見る感じでは和邇駅から小野駅まで3キロくらいなので、ハイキングには丁度いい感じだと思います。

比良里山散策道

小野神社でもらった地図に載っていましたが、道が結構曲がりくねっているのと、住宅街の中なので、地図通り歩くのが難しかったです。

天皇神社

9:45着

創建は村上天皇・康保3年(966年)です。

現在の本殿は正中元年(1324年)の建築です。

御祭神

素戔嗚尊

京都八坂祇園の「牛頭天王」が祀られています。

和邇の起源

和邇(わに)一族は孝昭天皇(第5代天皇・紀元前475〜393年)の皇子・天足彦國押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)から出て、現在の奈良県天理市和邇町付近を本拠地としていました。

後に、和邇一族は琵琶湖西岸の地を有したことから、この地は和邇という地名になりました。

大和朝廷成立以前に今の大阪府、京都府、奈良県、三重県、愛知県、滋賀県の広い地域を統治していた一族です。

小野一族も和邇一族から出ています。

和邇公園

10:15

和邇川に沿って、桜並木がずって続いています。

小野神社

  パワーいただきました!

10:20着

小野氏の氏神で、推古天皇の時代に小野妹子が先祖を祀って創建したと伝えられています。

御祭神

天足彦國押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)

米餅搗大使主命(たがねつきおほおみのみこと)

菓子・餅の神様

米餅搗大使主命は天足彦國押人命から数えて7代目です。

応神天皇の時代に、我が国で初めて菓子・餅の元の粢(しとぎ)を作り、米餅搗(たがねつき)の姓を賜ったそうです。

御朱印

平日だったからか、社務所が無人で、こちらが1枚各¥100で販売されていたので、購入しました。

日付が入らないのが残念ですが。記念に。

小野氏 系図

 

 

小野篁神社

同じ境内の「小野神社」の隣にあります。

小野篁

延暦21年(802年)〜仁寿2年(853年)

隠岐へ流罪

承和元年(834年)遣唐副使を命じられ、836年出発しましたが、2度失敗。再度命じられますが、大使・藤原常嗣と折り合いが悪くなり、渡航を取り止めます。その後、遣唐使を風刺した漢詩が嵯峨上皇の目に入り、流罪に。

百人一首の「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと  人には告げよ あまのつりぶね」はこの時の心境を読んだ歌です。

3年後、許され帰京

その後は順調に昇進します。

政務能力だけでなく、漢詩・和歌・書にも秀でていました。また、身長188cmの巨漢でした。

小野小町の塔

小野小町

生没年不詳です。小野篁の孫、または娘とする説などあります。

六歌仙の一人です。

先程の篁の和歌の答歌として15歳の小町が読んだ歌があります。

「おきをいて みをやくよりも わびしきは みやこでしまの わかれなりけり」

熾火で(隠岐と熾の掛詞)身を焼くように悲しく、侘しく心細く、不安であるのは都と島の別れです。

ここでは、小町は篁の娘という説をとっています。

文徳天皇の更衣?

篁が隠岐から戻った、承和9年(842年)17歳で宮中に入ったのではないかという説もあります。

当時の有名歌人らと親交があり、上級女官として長年宮中に仕えたとも考えられています。

彼女には色々な伝説がありますが、確かなことは不明です。

小野道風神社

10:50着

鳥居の前は公園になっていて、2022年5月1日(日)は朝市が開かれるそうです。

小野道風

寛平6年(894年)〜康保3年967年

小野篁の孫です。

中国的な書風から日本的な書道へ変革した人で、藤原佐理・藤原行成と合わせて『三蹟』と称されています。

花札

蛙が柳に飛びつこうと、何度も飛び跳ねていると、たまたま、風が吹いて上手く飛び移ることができました。その姿を見た道風は自分の努力の足りなさに気づいたという逸話が有名です。

「柳に小野道風」の絵柄は花札のひとつになっています。

唐臼山古墳

11:40着

今から約1400年前(7世紀前半)、古墳時代の終わり頃に作られたそうです。

古墳の展望台からは琵琶湖大橋と三上山が見えました。

古墳の麓は公園が整備されていて、ベンチや東屋があり休憩できます。

今日は家族連れで、お花見されている方も多かったです。

小野妹子神社

11:50着

古墳の上に社殿があり、社殿のすぐ後ろに巨大な箱形石棺状石室が露出しています。

これが小野妹子のお墓ではないかと考えられていますが、確証はないようです。

時代的にあっているのと、ヤマト朝廷の官人層だけが造営できる規模のものだからだそうです。

小野妹子

推古天皇1年(607年)に初の遣隋使の使節団長として、派遣されました。「日出処の天子…」で始まる有名な国書を持参しています。

また、聖徳太子の命により京都六角堂の住職になり、境内の池の傍らに坊舎を構えて、朝夕仏前に花を供えたことが、華道池坊の起こりである為、「華道の祖」と呼ばれています。

その為、大阪府南河内郡太子町にも池坊によって管理されている小野妹子の墓があります。

和食 絆

12:35着

昼食は徒歩で小野駅の2、3分手前にある、『絆』(きずな)さんでいただきました。

住宅街にあるお店で、お酒のサカナや日本酒も美味しそうでした。

今日はお酒は我慢して、『お刺身定食』¥1500(税込)にしました。

ご飯とお味噌汁はおかわり自由です。私はご飯を半分おかわりしました。

お味噌汁も魚のダシが効いていて、美味しかったです。

デザート(苺とゼリー)と珈琲もついています。

新しい綺麗なお店で、ゆったり食事が出来ました。

JR小野駅

13:30着

まだ、時間は早いですが、万歩計で12,500歩以上歩いたので、今日はここまでにしました。

午後も散策する場合は、この近辺には古墳群が多数あるので、そちらを巡ることができます。

この季節は桜だけでなく、色々な花が道の脇に咲いていて、歩いていて、楽しかったです。

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