伝説の将軍 藤原秀郷 著者 野口 実 吉川弘文館

俵藤太って何者?

滋賀に生まれ育ったので、いつ聞いたかは覚えていないですが、三上山のムカデ退治をした人。ということだけは知っています。

でも、それ以上深く調べることも無く、現在に至っていました。

先日、瀬田の唐橋を渡って、建部大社を参拝する際に、龍宮秀郷社が橋のたもとにあることも、はじめて知りました。

まず、俵藤太の本名藤原秀郷だという事も初耳でした。ムカデ退治のお礼にどれだけ食べても減らない米俵をもらった、藤原氏の太郎(長男)で俵藤太と呼ばれたとか…。そうだったんですか。

この時一緒にもらった釣鐘は三井寺に寄進したそうで、『三井の晩鐘』、『弁慶のひきずり鐘』で有名なあの鐘だそうです。

平安時代もいっぱい戦争していた

秀郷の生年は不詳ですが、 寛平三年(891年)?ー天徳二年(958年)?くらいではないかという事です。

平安時代ってあまり戦争のイメージ無かったんですが、各地で戦争しています。

そして秀衡は京都で和歌や蹴鞠をしている、藤原氏ではなく、都では出世できる見込みがないので、東国(あづま)へ新天地を求めた軍事能力に秀でた王臣貴族でした。

坂上田村麻呂が蝦夷を討伐したからといって、急に完全に平和になるわけないですよね。

その王臣貴族には桓武平氏清和源氏などもいます。

最近、戦国時代と幕末ものよりも鎌倉・室町時代が面白く感じていたんですが、平安時代の時代小説も面白そうです。

蝦夷のその後

陸奥・出羽の蝦夷のうち、蝦夷征伐(7〜9世紀まで)などの後、朝廷の支配に属するようになった人達は

俘囚と呼ばれたそうです。

彼らは戦闘能力に優れていたので、太宰府などの警護や各地の戦闘に駆り出されるようになったそうです。

しかし、そのまま大人しく言いなりになっているはずもなく、叛乱が起こります。その鎮圧に王臣貴族たちが向かいました。

まだまだ、完全に日本は一つにはなっていない時代ですね。

それに加えて、秀郷が生まれた頃は、西日本では海賊たちが新羅王朝の崩壊など東アジア世界の動揺の影響を受けて、蜂起・掠奪をくりかえしていて、全然平安じゃないです。

平将門

鎮守府将軍・平良持の子。『応仁記』によると寛平元年(889年)生まれで、天慶三年(940年)没。享年51歳。秀衡とは2歳違い位ですね。

昔、加藤剛さんが平将門を演じた、大河ドラマを見たのですが、その頃は全く歴史などわからなかったので、また、この辺りを題材にして欲しいです。

来年の大河は平安末から鎌倉なので、楽しみにしています。

平将門の乱

秀郷と将門は同じ軍事貴族でしたが、将門討伐の攻によって坂東北部に軍事的覇権を確立します。

秀郷は東国生まれで、直接滋賀県とは関係なさそうですが、将門を討伐した事で、伝説の英雄になって行ったみたいです。

でも、現在の知名度で言うと、倒した秀郷より将門の方が格段に上なのは、それほど当時の人々から将門が恐れられていたという事なんでしょうね。

秀衡の子孫

安和の変(969年)= 藤原氏の他氏排斥の最後、源高明(醍醐天皇の子供)が大宰府権帥に左遷。

以降、摂関が常置され、藤原氏の全盛期を迎えることに。

源高明に仕えていたとみられる秀郷の子・千晴も安和の変に絡み失脚、隠岐国に流罪となります。

源高明に為平親王擁立の陰謀があるとして、源満仲(清和源氏)が密告しました。

しかし、千晴の弟・千常の子孫は12世紀に武蔵の在地領主に成長。

 

 

鎮守府将軍

鎮守府=辺境の朝敵を鎮撫する常設の官。古代蝦夷経営のために陸奥国に置かれた軍政府。奈良時代は国府と同居して多賀城にあったが、征夷戦に勝利して北上川中流域を律令国家の支配域に組み入れることに成功した坂上田村麻呂が、延暦21年(802年)胆沢城を築き、独立の官庁となりました。

将軍とは鎮守府将軍のことで、征夷大将軍は臨時のもの。

11世紀前半まで、秀郷の子孫が世襲しました。

・藤原利仁=『今昔物語集』芋粥にも登場する

『今昔物語集』 征新羅将軍=文徳天皇の時代、朝命に従わない新羅を征伐する将軍。これを知った新羅は、唐の方全阿闍梨を招いて調伏を行う。そのため利仁は出征の途上、山城と摂津境の山崎で頓死する。ということになってます。

・平将門の父・良持も鎮守府将軍に任ぜられています

中央軍事貴族

朝廷は平将門の乱を在地の武力によって鎮圧した事により、これを藤原純友の乱にも投入しようとしました。

そのため、地方軍事貴族を中央の武力として編成する方針を示し、秀郷・平貞盛らは都に進出。

彼らは、地方に経済的な基盤を置きながら都を政治的な活動の舞台とし、時に受領や鎮守府・秋田城・大宰府などの軍政官に補任されて辺境の治安維持にあたりました。

西行 (佐藤義清)

秀衡の末裔で、紀伊国に経済基盤を置いて都の武者としていた藤原氏は佐藤氏と称されます。

西行こと佐藤義清は歌人、弓馬の達人として知られています。

義清は鳥羽院の北面の武士で、院の中宮の待賢門院の兄・左大臣・徳大寺実能の家人でありました。しかし、23歳で出家しています。同時期の北面の武士に平清盛もいます。

かつて詠んだ「願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」の歌のとおり、に入寂しました。建久元年(1190年)、享年73歳。

平泉の奥州藤原氏

平泉藤原氏の祖は、陸奥奥六郡の安倍頼良(頼時)の婿となって、前九年合戦で源頼義に惨殺された藤原経清です。経清の子、清衡が苦難の末、奥羽両国を実質的支配のもとにおさめ、京都の王朝政府から自立した政権を平泉の地に樹立しました。

平家物語の桓武平氏や鎌倉幕府以後の武家政権で活躍する清和源氏より、地味なような気もしますが。

「都の武者」

王朝国家は藤原秀郷や平貞盛など地方留在の軍事貴族の武力を利用し平将門の乱を鎮圧しました。この乱後、彼らの子孫は地方だけでなく「都の武者」=中央軍事貴族としても活躍し、国家軍制の中でも明確な役割を与えられるようになります。

俵藤太説話の形成

藤原秀郷が「田原藤太」として、はじめて文献に登場するのは一二世紀前半に成立したとされる『今昔物語集』であり、秀郷が「俵藤太」と称したことは同時代の文献や資料からは確認できません。

室町時代の御伽草子『俵藤太物語』や『太平記』などにより、ムカデ退治などの伝説の英雄に仕立て上げられたのは、秀郷が平将門を討伐したという事実から来ています。

その恩賞として従四位下に叙せられたのは、地方豪族としては破格のことで、功績が抜群のものであることがわかります。

王臣貴族として、源氏や平氏とともに、東国で戦い、勢力を拡大した、藤原氏。

秀郷の平将門討伐と、その後の秀郷の子孫たちの活躍が、「俵藤太伝説」を作っていったようです。

この本の中には、京都のお公家さん的な藤原氏ではない、武人としての藤原氏が紹介されていて、平安時代の違う見方ができました。

王臣貴族

そして、在地豪族に婿入り(苗字はそのまま、通い婚)することで、勢力を拡大していきました。

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