遷(せんと)都 著者 小松左京

小松左京

石山寺を参拝するにあたり、かつて読んだ本を思い返してみたのですが、紫式部に関する本で読んだことがあるのはこの本だけでした。(大和和紀さんの漫画『あさきゆめみし』以外では)

SF小説のイメージが強い作家さんですが、この本は歴史ミステリーです。

ずいぶん昔に『日本沈没』『復活の日』とこの『遷都』を読んで、どれも面白かったですが、実は3冊の中で『遷都』が一番好きでした。

三つの中編作品集

平安時代の有名な歴史的事件を題材にしてあります。神社仏閣巡りをしていると、よく目にする名前が出てきて、これからの観光にも役立ちそうです。久しぶりに読み直してみて、面白かったので、ご紹介します。

年表だけではわからない、人間関係がわかり、それぞれの事件のもつ意味がその後の歴史も含めて、描かれています。

紫式部が登場するのは、三番目の『糸遊』です。

『応天炎上』

伴大納言絵巻

応天門の変約300年後後白河法皇常盤光長に描かせたと、いわれています。

登場人物

菅原道真(21歳)主人公

紀長谷雄(道真の友人)

伴善男 父は早良親王の廃立事件で失脚、佐渡へ配流。しかし善男は見事中央政界にカムバック。

源信(みなもとのまこと)=左大臣、嵯峨天皇の皇子。

皇室の費用削減の為、初めて皇子皇女が臣籍降下し源の性を名乗った。

藤原良房 源信の妹・潔姫との間に生まれた明子が清和天皇の母に。

在原業平 良房の姪の高子の入内前に起こした恋愛事件は『伊勢物語』のモデルと言われている。

応天門の変

貞観8年(866年)応天門が炎上、大納言・伴善男が左大臣・源信の放火だと告発するのですが…。

伴氏・紀氏の没落

応天門の変後、伴氏・紀氏が没落し、藤原氏の勢力は一層拡大します。

その辺りのドロドロした人間関係も絡めたお話で、真犯人も最後に判明します。

 

『遷都』

1000年の京(みやこ)平安京 「北家の京」

桓武天皇(山部親王)藤原百川(藤原式家)がお互いを利用しながら、政敵を排除し新しい都(長岡京)を作っていく過程が描かれています。150ページ程ですが、陰謀てんこ盛りです。

系図を見ながらでないと、わかりにくかったので、作ってみました。

今上天皇は結局、天智天皇の皇子の中でも、志貴皇子の血筋になります。

目立つと殺されるので、大人しくしていた人が最終的に残りました。

井上皇后事件

宝亀3年(772年)光仁天皇を呪詛したとして、皇后を廃され、他部(おさべ)親王も皇太子を廃されました。

第49代 光仁天皇

志貴皇子の息子の白壁王(光仁天皇)も父に倣って、お酒に溺れるふりをしていましたが、宝亀元年(770年)62歳で即位することに。

聖武天皇の皇女・井上内親王が皇后となり、12歳の他部親王が皇太子になりました。

山部親王(桓武天皇)は当時30代でしたが、母・高野新笠が朝鮮系渡来人の一族で身分が低かったので、皇太子にはなれませんでした。

藤原 北家 VS 式家

宝亀2年(771年)井上皇后、他部親王派の左大臣・藤原永手(藤原北家)が他界し、山部親王派の藤原百川ら藤原式家一派の陰謀による事件とも言われています。

事件後、宝亀3年(772年)山部親王が皇太子に

宝亀6年(775年)幽閉先で井上皇后、他部親王(享年15歳)共に同日に死去しました。

藤原種継暗殺

第50代 桓武天皇

天応元年(781年)即位し、同母弟・早良親王が皇太子になりました。

百川は宝亀10年(779年)既に死去。享年48歳でした。

延暦3年(784年)長岡京に遷都。

延暦4年(784年)藤原種継(藤原式家・百川の甥)長岡京造営最高責任者が暗殺されます。

首謀者は大伴家持の甥・大伴継人

春宮大夫・大伴家持は事件の1ヶ月ほど前に任地の東国で67歳で死去していますが、継人の供述では、家持の計略で、皇太子にはかって暗殺したとのことです。

4日後、捕らえられた皇太子は絶食し、淡路へ流される途中で死去しました。

なぜ遷都したのか、どうしてそこに都を置いたのか

地震・天候不良・疫病など、ありとあらゆる災害に見舞われ、関係者自身や身内の人々の死や病が頻発します。

今回も早良親王の祟りを恐れて、広大な長岡京を10年で棄てることになります。

ここでは井上皇后事件と種継暗殺事件のみ書きましたが、小説の中では仁徳天皇の難波高津宮から説明が始まっています。改めて、小松左京さん凄いです。

平安京遷都後も、怨霊事件はなくなりませんが、遷都は以後なくなりました。その辺りの解説も面白かったです。

『糸遊(かげろう)』

紫式部と石山寺

紫式部は仕えていた上東門院(藤原彰子)より新しい作品の依頼を受け、物語の着想を授かるように、石山寺に1週間の参籠をしました。

寛弘元年(1004年)8月15日、瀬田川の対岸の金勝山にのぼる月が川面に映る情景を眺めつつ、須磨、明石の物語から筆を起こしたとされています。

『糸遊』はまだ彰子に仕える前の、紫式部24、5歳頃のお話です。

豪華な登場人物

主人公=紫式部

道綱の母の死後、志賀の前から「蜻蛉日記」の写しを借りる事に。しかし、安和の変の辺りを記述した部分を道綱が持ち帰ったままになっていると知り…。

 

藤原道綱の母、清少納言、赤染衛門

藤原道長、安倍晴明、源頼光(源満仲の長男)、頼光四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)など

「蜻蛉日記」の作者、大納言藤原道綱の母

大納言・藤原道綱の母=陸奥守・藤原倫寧(ともやす)女、才色兼備ながら、高位の貴族ではない受領の娘の苦悩と葛藤、それを昇華させ、日記文学の傑作に。

夫、藤原兼家(権勢の争いにあけくれる高級平安貴族)の数多い妻の中の一人。

藤原兼家=安和の変の首謀者のひとり。その後、一条天皇の外戚として摂政太政大臣にのし上がる。

藤原道長=兼家の三男、母は藤原時姫

志賀の前=大納言藤原道綱の母の養女、兼家が志賀の里の女に産ませてほおっておいた娘。

『蜻蛉日記』=天暦八年(954年)ー天延二年(974年)の出来事が書かれていて、「安和の変」についても記載あり。

安和の変(藤原氏の他氏排斥の最後の疑獄事件)

安和の変、安和二年(969年) = 醍醐天皇の皇子・左大臣源高明の左大臣を剥奪し太宰権帥に落とす。

源満仲(清和源氏)の密告 「冷泉帝廃嫡 謀反の企てあり」と。

前相模介・藤原千晴(藤原秀郷=俵藤太の子) =満仲のライバル、。源高明に仕えていた為、「安和の変」後、隠岐に配流。

三上山のムカデ退治をした俵藤太の息子がここに登場しています。

源氏物語

光源氏と女性達との恋愛物語とは別の、当時の権力闘争の側面に重点を置いたミステリーです。

光源氏のモデルとして、藤原道長在原業平など何人か候補がいますが、この本を読むと源高明が最も光源氏に近いように感じます。

道長は直接「安和の変」には関わっていないかもしれませんが、時間がたったとはいえ、かなりデリケートな内容で、事件を連想させる主人公を描くことを許したのは、道長の懐の深さなのか、物語にすることで怨霊封じをしているのか。

当時の人はこの物語と安和の変の関係性をどのように思っていたのかなども、気になります。

歴史ミステリーと多少のバイオレンス要素もあり、中編で長さも丁度良いので、映画やドラマになったら面白いとも思いました。

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